「写楽堂へどうぞ。」
著者:佐藤写楽
第一夜「シェイクスピアと毒の瓶」
仄暗い闇の中、まばゆい明かりで照らし出される男。周囲には乱雑に陳列された骨董品とおぼしき品物の数々。やぶれかけた漫画のポスターが一際目につく、木目調のカウンター。その向こうに、彼は立っている。男は少し照れながらそっと口を開く。
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――皆様、こぼん……こんばんは。ワタクシ、「写楽堂」の店主でございます。
今宵は皆様に当店を知っていただくため、ほんの短いお話をさせていただきたく存じます。それほどお時間は取らせません。眠る前の子守唄とでも思って下さいませ。
当店には毎夜、悩ましき事情を抱えた人々がフラりと迷い込んでいらっしゃいます。そんな方々の事情を察し、その方にとって最も相応しい「道具」をお売りするのが、ワタクシめの仕事でございます。
不可思議な魔法のかかったその「道具」は、「何かと引き替えに、何かを失う」という奇妙な効果をお客様にもたらします。引き替えに→失う。マイナスとマイナス。「それじゃ客は何も得しないじゃないか。コントンジョノイコ」と、思われる方もいらっしゃるでしょう。えぇえぇ、そうかも知れませんね。しかし当店を訪れたお客様は、一つの物語が終わる頃にはとても良いお顔をされているようです。
もちろんお代は結構でぇす。オホホホホ!ココロのスキマお埋め……いや、違った。それはかの大先輩でした。当店の場合、お代はキッチリ頂戴致します。当店でいただく"お代"は、お客様の「不幸な事情」……なのかも知れません。
さて、今夜はどのようなお客様がいらっしゃるのでしょうか?ワクワクドキドキ。そしてツルツルテカテカ。「どんなお客様が来店され、どんな物を必要とされるのか?」それこそが「お店の醍醐味」というものでございますね。いやあ、楽しみだ。
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ざわ……ざわ……ざわ……ガヤガヤガヤ
「そうだ杉村、お前最近どうなんだ?新しい彼女は出来たか?」
「え?いやあ……」
「ウェイ~先輩、どうなんスかぁ~?」
「そうだよ~。いい歳なんだから、そろそろ結婚も考えないと」
モヤモヤと立ち昇るタバコと焼き鳥の煙。打楽器のように打ち鳴らされるビールジョッキ。人々が大声で笑う騒がしい週末の居酒屋。今夜も俺はいつものように同僚たちとの「週末宴会」を楽しんでいる。
俺の名前は杉村。どこにでも居るしがないサラリーマンだ。20代の大半を仕事に費やしてきた俺も、今や30代の中堅社員。仕事に慣れ、社会を知る。人生というものに慣れてくる年頃なのかも知れない。
今飲んでいるのは、歳の近い上司、ノリの軽い後輩、女性の先輩と俺の4人だ。いつものメンバーで、いつもの店。何も変わらない、いつもの週末だ。
「彼女は前と一緒ですよ。まだ彼女と付き合っています。でも結婚とかはまだ……まあ、俺の話はいいじゃないですか」
「そ、そうか。でもなあ……」
「そう言えばオリンピック見ましたぁ?スゴかったスよね、スケートの!」
「見た見た!イケメンよね~!」
ナイスだ後輩。まるで俺の心を察するように、後輩が話題を変えてくれた。俺は恋愛話が苦手だ。他人に口を出されるのも不愉快だし、彼女のことはそっとしておいて欲しい。
オリンピックから政治、社会ニュースまで酔にまかせて取り留めもない話をしながら、今夜の「週末宴会」は終わった。俺もだいぶ酔っ払ったらしい。向かう駅がみんなと違う俺は、人気のない裏通りをトボトボと歩いていた。
明日は休みだし、少し飲み足りない。休日の前の日はトコトン飲みたくなるのが中年中堅社員の習性ってもんだ。そう言えば駅の近くに雰囲気のいい小洒落たバーがあった。そこで軽く飲んでから帰ろう。そう思って、何度か入ったことのあるバーへの階段を降りた。
カランコロン
「写楽堂へようそこ……ようこそ。いらっしゃいませ」
噛んだ?いや、そんなことより店の雰囲気が違う。古びた雑貨が無造作に並べられ、壁も見えない。まるで中東あたりの骨董品屋といった雰囲気だ。降りる場所を間違ったか?半年よりもっと前、以前にいつ来たのかも分からない小さなバーだ。違う店になっていても不思議はない。
「あ、ゴメンなさい。店を間違えたみたいだ」
「いえいえ。何も間違ってはおりませんよ。どうぞお入り下さい」
室内だというのに大きなシルクハットをかぶり、左肩に黒猫のぬいぐるみを乗せた黒いロングコートにスーツ姿の珍妙な男。――恐らくここの店主なのだろう。ハロウィンの仮装かとも思われる奇妙な出で立ちに戸惑う俺を、その男は引き止めた。よほど客の来ない店なのか?しかし俺は今「小洒落たバーでシメの一杯」と思っているのだから、申し訳ないがおたくの店に興味はない。早々に引き返そう。
「すみません。このお店に来るつもりじゃなかったんです。バーと間違えて。それでは」
「……ちょ、ちょお、まてよぉ」
「はあ?」
「い、いえ、ああ!そうだ!コレをどうぞ」
その店主は、小さなガラスの瓶を無理やり俺に掴ませた。茶色いガラスで出来た薬瓶。まるで推理小説に登場する“毒の瓶”のようだ。
「え?いや、何です?これ」
「魔法の瓶でございます」
「は?いや、結構です」
「いやいやいやいや、どうぞお持ち下さい。持って帰って頂かないと困るのです」
「いや、結構です。ちょっと店を間違えただけだから」
「まぁまぁ。とりあえずお金は結構ですので、新装開店の粗品だとでも思って下さい」
「そうなの?でも何か毒の瓶っぽくない?何これ?」
「先程も申し上げたとおり、魔法のかかった特別な瓶でございます」
「魔法ぉ~?面白いね。この21世紀に魔法って」
「えぇえぇ。本当に魔法の瓶でございます。どうぞ、お持ち帰り下さい」
「だが断る!」
酔っ払っているからか、少し面白くなってきた。「魔法」だなんて本当に笑える。今のこの時代に魔法って()。この瓶も何だかよく分からないし……よく見ると「ポイズン(反町ではない)」って書いてあるじゃねーか!何だコレ!
「これポイズン(反町ではない)って書いてあるじゃん。やっぱり毒の瓶でしょ?気持ち悪い。マジでいらないから。もう帰るし、どうもさようなら」
「いやいやいやいや、絶対!ぜぇぇぇぇっっっったい!必要になりますから!お願いしますぅ~。ダイジョブですからぁ~。ダイジョブハカセですからぁ~。持って帰ってくださぃ~すぃ~」
メンド臭いなぁ。何でそんなに必死なんだ?異常にも必死な店主に根負けした俺は、この瓶を持って帰ることにした。どうせ中身は空だし、問題ないだろう。小さな路地裏の店だから、きっと客が来なくて困っているんだ。妙な仮装も客寄せのためか。とにかくここを出たいし、こんな瓶くらいどうでもいい。
「本当にお金はいらないんだね?じゃあコレ貰って帰るね?」
「えぇえぇ、お金は結構です。お代はお使いになる時に頂きますので」
「使う時?」
「えぇえぇ。近い将来、必ずソレが必要になりますから。人生に絶望した時、それに水を入れてお飲み下さい。たった一度だけ、魔法の効果を発揮致します」
「はあ?そうするとどうなんの?」
「ストーリー上、それを申し上げることは出来ません!」
はあ?本当に面倒臭い。何なんだコイツは?この人は、アレな人だ。アカン感じの人だ。もう今は酔っ払っているし、とりあえず何でもいいや。とにかくここを出よう。面倒事はゴメンだ。
「分かりました。じゃあコレ頂いて行きますね。使わなかったらお金はいらないんですよね?」
「えぇえぇ!その通りでございますぅ」
「じゃあ、さようなら」
「どうもぉぅ、ありがとぅございましたあ!」
雰囲気的にミステリアスな感じの人かと思ったが、何であんなに必死なんだ?非常にキモい。状況が良く分からないまま、俺はその店を後にした。そもそも前に行ったあのバーはもう潰れてしまったのか?残念だ。まあいい。バカバカしい掛け合いのせいで酔いも冷めたし、今夜はとにかく家に帰ろう。彼女が待っている。
「ただいまー。遅くなった」
「おかえり。また飲んでたの?」
「ああ、会社の人たちとね。あと、その帰りに変な店に入っちゃってさ」
「へぇ~どんなお店?」
「いや、何か寂れた骨董品屋みたいな?よく分からない感じの店。店長っぽい人がスゴい変人だった」
「そうなんだ。面白そう。今度連れてってよ」
「あぁ~あんまりお勧めしないけど、まあ今度ね。疲れたし、もう寝るよ」
「うん。おやすみ」
「おやすみ」
俺が何時に帰って来ても、彼女は起きて待っていてくれる。本当に最高の女性だ。こんな人は他にいないだろう。ずっと、一生、大事にしよう。そんなことを考えながら、今夜も俺は眠りに落ちた。
「よう、おはよう杉村。週末はどうだった?」
「あ、おはようございます。いつも通りでしたよ。課長はどうでした?」
「いやあ、家族サービスで大変だったよ。お前もどうだ?そろそろ結婚とか」
「ははは、そうですね」
サラリーマンの週末はあっという間に終わる。ドラマやマンガなら、週5で働いている主人公でも自由気ままに冒険をするんだろうが、現実は違う。サラリーマンの日常なんて、睡眠と仕事の繰り返しだ。その合間に友人や同僚、家族や恋人との時間を過ごす。人生とはそういうものだ。だが、それでいい。“平穏無事”それこそが幸せだ。
「あの……なあ、杉村。お前の“カノジョ”のことだけどさ、今週末の飲み会にでも連れて来れないかな?」
「え?いやあ、彼女人見知りなもんでちょっと。すみません」
突然、何だ?課長がこんなことを言い出すなんて珍しいな。
「ウェイ~先輩、いいじゃないスか。オレもカノジョさんに会ってみたいッス!」
「いいじゃない。連れてきなさいよ。課長が奢ってくれるって」
「おいおい、まぁいいか。じゃあ今週末は俺の奢りだ。だから、連れて来いよ」
「は、はぁ……」
みんなまで話に乗ってきてしまった。あまりの勢いに、断り切ることができなかった。普段ならつかず離れず、仲は良くとも一定の距離感を保った大人な同僚たち。こんな風に、プライベートなことを無理強いされたのは初めてだ。はあ、彼女に何て言おう。極度の人見知りだし、俺と違って人の多い騒がしい場所は苦手なんだよな。
そのことが頭から離れず、思うように仕事が手につかない一週間を過ごした。そしてまた、いつもの週末が来る。いや、今夜は“いつも”と呼ぶには少し様相が違うのかも知れない。駅前に彼女を迎えに行くため、みんなには先に店に向かってもらった。
何て紹介しようか?人見知りの彼女は大丈夫だろうか?次々浮かび上がる心配事に頭を悩ませながら、待ち合わせ場所に向かった。
「お待たせ。今日は無理言ってゴメンな」
「ううん。大丈夫。私も職場の皆さんと会うの楽しみだよ」
気を使ってくれているんだな。申し訳ない。彼女の優しさに、小心者の俺は何度救われたか知れない。本当にいい彼女だ。同僚たちもきっと快く迎えてくれるだろう。彼女なら大丈夫だ。さ、店に向かおう。
「おー待ってたぞ!みんなもう先に飲んでるから、お前も何か頼め!」
「あ、こちら彼女の***です」
「はじめまして。杉村がいつもお世話になってます」
「…………」
一間の沈黙。どうした?何か変だったか?
「あの……はじめましてって言ってますけど……?」
「あ……ああ、スマン。どうもはじめまして。さ、とりあえず飲もう!」
「そうスね。先輩と……カノジョさん?は、何にします?」
「カノジョさんはカクテルとかの方がいいんじゃない?このピーチフィズなんてどう?」
「あ、じゃあ、とりあえずそれで……いいよな?」
「うん」
「じゃあ彼女はそれで。俺はビールを」
よく分からないが、今日はみんな妙な雰囲気だ。まあいい。飲み始めてしまえば、きっと慣れてくれるだろう。多少の違和感を感じつつも、コロコロと変わる話題でいつの間にかそんなことは忘れ、楽しい時間を過ごしていた。彼女も控えめだが、話を聞きながら時々笑っている。良かった。心配だったが、無事にみんなと打ち解けたようだ。
「さ、じゃあ、そろそろいいか?あまり先延ばしにすると俺も言えなくなりそうだ」
「ウェイス……そうスね。はい……」
「そうね……」
「ん?みんなどうしたんですか?」
「杉村、今日はお前に大事な話があるんだ。とりあえず、何も言わずに聞いてくれ」
「は、はあ……」
何だろう?飲みはじめた頃に感じていた妙な違和感。みんなで何か隠していたのか?
「お前の……そのぉ……彼女のことなんだがな」
「え?ええ、彼女が何です?」
「一年前に……その……死んだだろ?交通事故で」
「え?は?何を言ってるんです?」
何の話だ?彼女ならここに居るじゃないか。課長は何を言ってるんだ?
「そのぉ、先輩が出張中に事故で……でも先輩、葬儀にも出なくて。その後何もなかったように出勤してきて、オレ、どうしていいか……」
――何だ?後輩まで
「あなた、それから変になってるのよ。何度聞いても『彼女はいる』って。みんなね、少し気持ち悪いなって思ったこともあったの。でも、もう見ていられなくて。もし何か心の病気だったら、ちゃんと病院に行かせようって話になったの」
全身からドッと汗が噴き出るのを感じる。手足は小刻みに震え、先ほどまで嫌なほど騒がしかった店内の音が耳に入らない。突然のことに混乱した俺は、金縛りのように固まり言葉を発することが出来ない。
「騙し打ちみたいになってスマンな……。お前とはもう長い付き合いだ。ツライ気持ちも分かる。だが、放っておくことは出来ないと思って、コイツらと相談して今日言おうってことになったんだ」
「スンマセン先輩。でも、先輩にちゃんと立ち直って欲しいんです」
「現実を見て。彼女は死んだの。もういないのよ。もう……」
え?は?何だ?みんな何言ってんだ?彼女はここに居るじゃないか!そうだ、隣に居る。俺は動揺を隠すこともできず、ぎこちない動きで隣に座っているはずの彼女の方を向く。
「そうなの。ワタシ……もう死んでるんだ」
うわああああああぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!訳も分からずパニックになった俺は、椅子を倒し、テーブルのグラスを倒しながらトイレに駆け込んだ。何だ何だ何だ!!何なんだ!!!彼女が死んだ?死んでる?死ん……だ?死んだ……のか?そうだ、彼女はあの日、交通事故で……死んだ?確かにそう聞いた。でも、彼女は生きていたんだ。
一年前の出張中、俺はホテルで電話を受けた。親からだっただろうか?友人からか?そんなことも、もう覚えていない。とにかく俺は「彼女が交通事故で死んだ」と誰かから聞かされて頭が真っ白になり、タクシーに飛び乗った。真夜中、一晩中、高速を飛ばして彼女と暮らしているマンションへ帰ったのだ。
「あれ?おかえりなさい。出張からそのまま出勤するから、今日は遅くなるんじゃなかったけ?」
そこに“カノジョ”は、居た。確かに居たんだ。俺は無言で強く彼女を抱きしめた。良かった。悪いイタズラか、間違い電話か、とにかく彼女はここに居る。それだけで良かった。無事で良かった。疲れていたんだろう。安心した俺は、死んだようにそのまま眠ってしまった。
次に目覚めた時、丸二日が過ぎていた。しまった、無断欠勤をしてしまった。「急病で寝込んでいて、電話も出来ませんでした」と、怒鳴られる覚悟で電話をした俺に、課長は「好きなだけ休んでいい。しっかり体調が整ったら出勤してこい。何かあったら何でも相談に乗るからな」と、不思議と優しかった。
……彼女は、死んでいた。本当に、死んでいたんだ。なら、俺が見ていた“カノジョ”は何だ?幻覚?妄想?幽霊?それでも俺は、彼女と一緒に居たい。いや、このままじゃダメだ。きっと本当に、彼女はもう死んでいる。俺に見えているのは幻覚だ。しかし、彼女の居ない人生なんて想像出来ない。でも、このままじゃいけない……。
頭の中から混乱を追い出そうと、トイレの洗面台から勢い良く流れる水で顔を洗った。汗なのか水なのか分からない液体がシャツを濡らす。幻覚を作ってまで心が拒絶した現実。混乱が落ち着くにつれ、ジワリと胸の奥からこみ上げる悲しみと絶望。今まで逃げていた分深く大きく、真っ黒な感情が俺を襲った。
ハンカチを取り出そうと無意識にポケットを探る。するとそこに、あの日奇妙な店でもらった“毒の瓶”を見つける。
「あの時の毒の瓶か……ははっ」
「人生に絶望した時に――」あの店主はそう言っていた。不思議と笑いがこみ上げる。そういうことか。
その小さな瓶に水を注いだ。これは、ただの瓶だ。飲んだところで何も起きやしない。いや、中に毒が残っているかも知れない。それで、死ねる。もう自分が何を考えているのかも分からない。とにかく俺は、こんなバカなことでもしないと正気を保つことが出来ないんだ。もし死ねたら、彼女の元へ行ける。そうだ、そう信じよう。
心を決めて、瓶の中の水を、“毒”を飲み干した。
「***、今から会いに行くよ。待っていてくれ」
「ダメよ!あなたはまだ…………」
ああ、彼女の、いや、“カノジョ”の声が聞こえる。体から血の気が引いている気がする。指先の痺れと共に徐々に感覚が無くなっていくのが分かる。目眩もしてきた。やはりこれは毒だったのだ。はははっ、良かった。これで彼女の元へ…………
………………………………
「……先輩!……先輩!大丈夫スか!?」
「ん……んん?」
天井の電灯がやけに眩しく目に飛び込んでくる。後輩だ……みんなもいる。何だ?俺はどうしたんだ?冷たく硬い床、流れ落ちる水の音。心配そうに俺を見守る同僚たちの顔。そうか、俺はトイレで倒れている。少しづつ意識が戻ると共に、自分の状況を理解した。――俺は、死ねなかった。
「おい、何があった?大丈夫か?」
「大丈夫?はいお水、とりあえずコレ飲んで。救急車呼ぶ?」
「あ、いや、大丈夫です……」
まだ頭はクラクラとしているが、後輩の肩を借りて席に戻る。他の客はコチラをそれほど気にしていないようだ。まあ、ここは居酒屋だ。酔って暴れて、トイレで寝るくらいそれほど珍しいことじゃない。注目を集めなかったことにホッとしながら、重い体を動かして目の前に置かれた水を飲み干した。
「すみません。何だか目眩がして……もう大丈夫です」
「そ、そうか。悪かったな。俺たちが急にあんなこと言うから」
「スンマセン。先輩の気持ちも考えずに」
「ゴメンなさい。でもね、みんなあなたを心配してるのよ」
俺を心配する気持ちが、痛いほど伝わってくる。今夜だけじゃない。きっと長い間、俺はみんなに心配をかけていたのだ。何と言って詫び、どうやって感謝をしていいのか分からない。
ふと、“彼女”が座っているはずの隣の席へ振り返る。そこには、少しも減っていないカクテルグラスが置かれていた。そうだ。“カノジョ”は、俺が作り出したまぼろしだった。本当の彼女はあの日、死んだのだ。現実を受け入れることができずに、まぼろしの“カノジョ”を生み出してしまった自分がひどく情けない。みんなの、そして彼女のためにも俺は前を向かなければいけない。
「ご心配おかけしてすみません。もう大丈夫です。彼女のことも、自分の中で整理をつけようと思います」
「そうか。だが、無理はするなよ。ゆっくりでいいんだ。少しづつでいいから、現実を受け入れて前向きになれ。彼女も、きっとそう願ってる」
「そうですね……はい」
そうして、“いつも”とは程遠い今夜の「週末宴会」は終わった。まだ体がダルかった俺は、後輩に連れられてタクシーで家に帰った。もう“カノジョ”の居ない、あの部屋に。
「先輩、大丈夫スか?オレ、泊まっていきましょうか?」
「ははは、いいよ。もう帰れ。俺は大丈夫だから」
「そうスか。じゃあ……」
心配をかけた。職場のみんなだけじゃない。きっと俺の家族や友人、彼女のご家族にも心配と迷惑をかけた。そうだ、明日は休みだ。彼女のご両親に電話をして、葬儀に出席できなかったことを詫び、お墓の場所を聞こう。そして彼女に別れを告げよう。俺は彼女をちゃんと見送れていなかったのだから。
それ以来、俺の目の前に“カノジョ”は現れない。広く感じる部屋。言葉のない時間。孤独と静寂。もう“カノジョ”を見ることも、抱きしめることも出来ない。だが、乗り越えよう。きっと彼女は今も側に居る。少なくとも、俺の心の中に。
「さようなら。君のことは忘れない。いつか運命の時、俺もそちらに行くよ。それまで待っていてくれ」
「………………」
静寂の向こうから、彼女の声が聞こえた気がした。人生は、俺たちが思っているよりも短い。いつかどこかで「彼女」と再会できる日を待ちながら、もうしばらく生きてみよう。彼女との素晴らしい思い出を、胸に。
~・~・~・~・~・~・~・~・
……うっ……うう……あ、いや失礼。いいお話ですねぇ……うううっヨイヨイ。ワタクシ自身、こんなお話になるとは思いもしませんでした。あ、いきなりスミマセン。「初登場で噛んだ」でお馴染み「写楽堂」の店主でございます。
冒頭で「毎夜」とか「今夜の」なんてうそぶいておりますが、実はこの方が当店最初のお客様なのでございます。お渡しした「道具」が何とかお役に立ったようで、本当に良かった。
あの瓶は、当店「写楽堂」の商品でございます。当然、かの魔法がかかった「不可思議な道具」。彼は、「何かと引き替え」に「何かを失い」ました。さて、それは何でしょう?それは皆様のご想像にお任せ致しましょう。
そう言えば昔、シェイクスピアとか言う人間の戯曲家が、こんなことを書いております。
「恋は目で見ず、心で見るのだ」
お客様は、彼だけの目に見える“カノジョ”ではなく、心の中にいる“彼女”を大切にしようとお決めになったようです。
はて?カノジョと彼女、一体何が違うんでしょう?ワタクシにはサッパリ分かりません。まあ、本人が良ければそれで良いのです。彼女も今、幸せそうに笑っております。
それでは皆様、今宵はそろそろお暇致します。もし、人生に迷ったり、絶望をお感じになった時、そんな時には写楽堂へどうぞ。不可思議な魔法のかかった「奇妙な道具」と、美しすぎるイケメン店主がお待ちしております。
~・~・~・~・~・~・~・~・
……そう言えば、あの“毒の瓶”は結局何だったんだ?あれからしばらく後、そんなことを思いついて俺はいつかの階段を降りた。
「いらっしゃいませ。バー『魔の巣』へようこそ」
「あ、あれ?ここって骨董品屋じゃあ?」
「ここは何年も前からバーですよ?どこかとお間違えですか?」
「い、いえ。間違ったかな。すみません。失礼しました」
いつかのあの店、間違いない。この場所だった。どういうことだろうか?それから周辺をウロウロと探しまわってみたが、奇妙な店主の居たあの店を、とうとう見つけることは出来なかった。
「毒の瓶……か」
ポケットから、あの瓶を取り出す。店主は“魔法の瓶”と言っていた。瓶にはしっかり「ポイズン」と書いてある。書いてあるのだから、毒は毒なんだろう。だが俺は死ななかった。魔法の……毒?
そうか!本当にそうなのかは分からない。しかし、何故か俺は納得した。毒を飲んだからって、必ず死ぬとは限らない。何らかの――例えば視力や聴力を失う。そんなことがあるのかも知れない。
そんな風に自分を納得させた後で、近くのゴミ箱へ瓶を放り込んだ。自分の身に起こった奇妙な出来事が何であったのか、それは確かに気にかかる。しかし、もういい。
人生は“平穏無事”
それこそが幸せだ。